弁理士 折坂 茂樹の詳しい経歴
1994年 兵庫県立成尾高等学校卒業
高校1年生の頃に放送された「電子立国日本の自叙伝」に感化され、「半導体カッコイイ!半導体に関係のある仕事に就く!」と決意しました。とは言うものの、高校生活の95%はサッカーに没頭しました。1998年 大阪大学工学部電子工学科卒業
運よく合格した大阪大学。入学直後の講義で、高校までの授業とのギャップに頭をガツンとやられました。研究室に配属される前の3年間は、卒業に必要な単位を確保しながら、サッカー、スノーボード、釣りなど「学生生活をエンジョイ」していました。この頃、大学生協の書店で、資格予備校の「弁理士」のパンフレットを手に取って、弁理士の資格を意識しました。電子工学科の森田研究室に配属され、具体的な研究テーマ(非接触原子間力顕微鏡の画像化機構に関する研究)が与えられると、測定用の電子回路の設計、製作、プログラムの開発をしながら、アカデミックな研究を行いました。それまでに学んだ知識が現実の装置、ソフトウェア、実験データなどに結実していくことに感動を覚えました。
2000年 大阪大学大学院工学部電子工学専攻修了
引き続き「非接触原子間力顕微鏡の画像化機構に関する研究」をテーマに、研究を行いました。研究室のボスである森田清三教授は「結果がすべて」と言い切る厳しい先生でした。「新しい道具が新しい未来を切り拓く」という信念をお持ちであり、ぶれない研究姿勢から多くのことを学びました。2000年‐2004年 株式会社アドバンテスト
「半導体関係の仕事に就く」という目標を実現すべく、半導体試験装置の大手企業である株式会社アドバンテストに入社しました。在職中にはITバブルがはじけたり、景気悪化で給与カットやリストラが断行されたりという厳しい社会環境がありましたが、最先端のデバイスを試験するための装置という、技術的に極めて難易度の高い製品の開発を経験しました。特に、担当したのが「アナログ試験ユニット」であったため、アナログ回路、デジタル回路、ソフトウェア、通信技術、試験対象デバイスについての知識など、非常に広範囲の技術情報を習得しました。 景気の悪化が深刻になった頃、手に職をつけて会社に依存しない強い人間になりたいという思いから、弁理士試験の受験勉強を始めました。2004年‐2012年 都内の中堅国際特許事務所(2つの事務所)
弁理士試験の一次試験に合格を機に、特許事務所に転職しました。最初にお世話になった事務所では、日本の特許庁に対する出願明細書の作成を担当し、基本を叩き込まれました。担当した主な技術は、計時装置、フラッシュメモリ、電子地図システム、事務機器等です。2つ目の事務所では、外国での特許取得を担当する部門に配属され、アメリカ、ヨーロッパ、中国、韓国、台湾など、世界各国の特許取得を支援する業務からスタートしました。その後、日本の特許出願明細書作成、拒絶理由対応に業務範囲を広げました。担当した技術分野は、半導体試験装置、撮像装置、事務機器、光ファイバ、プリンタ、プロセッサ、ビジネスモデル等です。弁理士資格の取得を機に、海外業務の豊富な経験を買われて翻訳部門および海外のお客様を担当する部署のマネジメントを任され、最終的にはジュニア・パートナーとして経営陣の末席を汚すことになりました。2012年‐ IPボランチ国際特許事務所
弁理士資格を取った動機である「手に職をつけて会社に依存しない強い人間になりたい」という思いだけでなく、自分の力をもっともっと積極的に発揮して多くのお客様に貢献したいという思いから、独立開業に踏み切りました。人柄を表わすエピソード
■普通に道を歩いていると、よく道を尋ねられます。他にも歩いている人がいるにもかかわらず、お年寄りから若い人まで老若男女を問わず、時には外国人からも聞かれることがあります。気軽に質問がしやすい雰囲気を持っているのだとポジティブに解釈しています。
■中学から大学まで、サッカーに没頭していました。ポジションは主にセンターバック。チームの守備の要として、危険の芽を摘み取る役割を担っていました。かといって守備一辺倒ではなく、機を見てオーバーラップから得点を取ったりもしていました。ほぼ毎日欠かすことなく朝練に参加し、練習量では誰にも負けませんでした。卒業時に後輩からもらった色紙には「朝レンジャー1号」と書かれていました。努力の継続が今の自分を支えています。